浅川マキ / Maki Asagawa
物憂げな表情の黒づくめの女性
概要
浅川マキ(1942年1月27日-2010年1月17日)は日本のジャズ、ブルースミュージシャン。歌詞、作曲家。石川県石川郡美川町生まれ。高校卒業後、石川県美川町役場の国民年金窓口係として働いていたが、20歳になったある夜、妹の泣く声を背に夜行列車で突如東京へ移る。
マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイに影響を受けたスタイルで、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。月に一度シャンソン系ライブ喫茶「銀巴里」で美輪明宏らに混じって、アダモのシャンソン『雪が降る』やゴスペル『時には母のない子のように』などを歌っていた。
長い黒髪、深い声の響き、ジュリエット・グレコの影響であろうと想われる黒いロングドレスと物憂げな眼差し、愛煙家であり、ステージ上でも煙草を燻らせていたが、どこかマン・レイが撮影したモンパルナスのキキを彷彿させ注目を浴びるようになる。
「これは行ける」とふんだレコード会社アビオンレーベル(ビクター)は、1967年にシングル『東京挽歌/アーメン・ジロー』を発表してプロデビューする。デビュー時はまったく売れなく、活動はすぐに停止。
1968年12月11日から3日間、伊勢丹ななめ向かいにあったアートシアター新宿文化の地下にあるアンダーグラウンド劇場「蠍座」で、寺山修司が企画する初のワンマン公演「浅川マキの世界」を開催。毎夜午後10時開演という深夜ライブで、寺山修司が構成台本のように13の歌詞を送ったという。その中に「かもめ」があった。これがきっかけで、口コミで徐々に知名度が上がるようになる。
浅川マキは後年このライブのことをおもいおこして「『かもめ』は、私の感情をすべて捨てて歌った。そんなことは知りませんよ、と放り投げて唄うとき、詩は生きもののように独り歩きをする。寺山修司の言葉が勝手に客席に突き刺さっていく」と書き残している。
「かもめ」は水夫による港の娼婦の殺人の物語をモチーフにした内容だった。
「かもめ」がアンダーグラウンドで好評を博したので、レコード会社を移籍して1969年7月1日、寺本幸司のプロデュースによる『夜が明けたら/かもめ』で正式にレコード・デビュー。以後移籍することなく作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行うようになった。