地域名称と集落区分の特徴
周防大島の村々、特に東和町以外の地域においては、ひとつの村内で標高や成立時期の違いに基づき、集落が「郷」と「浜」という呼称で区別される傾向が見られる。具体的には、山間部に位置する集落が「郷」と呼ばれ、海岸に近い集落が「浜」と呼ばれる。
これらの名称は、必ずしも小字や村内の小組の伝統的な名称に依拠するものではなく、むしろ各集落の相対的な地勢(高低)や成立の新旧の対比により冠せられたと考えられる。
外入村に伝わる旧家や伝承
「外入」という地名については、かつて「外の入り江」という意味から名づけられたという俗説があった。つまり、外入が位置する外浦には深い入り江が広がっており、その特徴が地名に反映されたという考えである。
しかしながら、別の説では「入」の字は「壬生」を示すとされる。ここでいう「壬生」とは、乳部、すなわち皇子皇女の養育に携わる者や、その養育費用を担う封民を指し、「壬生部」と称されていた。興味深いことに、壬生は「ニフ」とも発音され、また「入部」や「丹生部」と記されることもあるため、外入の「入」も本来は壬生を意味していたのではないかと考えられる。
このような地名は、律令国家成立以前の古い時代に起源を持つと考えられ、恐らく5世紀頃に東和町に壬生部が居住していたことに由来していると推測される。その結果、当時の集落の名称として、外入と内入という形でその名残が残っているのではないか、と結論づけることができる。
外入村においては、旧家に関する多様な伝承が記録されている。たとえば、「外入」の「入」という字は、壬生部との歴史的関わりを示唆するとの推測があり、また『三代実録』元慶二年(878年)6月23日の項に登場する「山田神」が、外入村の山田神社に祀られる神を指している可能性も示唆されている。
これに加えて、野口、磯兼、河合という氏族の伝承が存在する。村の内陸部、いわゆる「郷」では、辻、河合、平原(おそらく伊良原を指すと考えられる)の各家が旧家として伝えられており、辻氏と河合氏は早期に郷を離れたとの記録がある。
現在、外入は「郷」「三下」「宮下」「妙見」「泊」という地区名で管理されている。より細かく分割すると「郷」「東三下」「西三下」「宮下」「上妙見」「下妙見」「東泊」「西泊」の八地区にわかれている。
郷
磯兼氏とその家臣団
郷は外入の内陸部、山間部に位置する地区である。中世以前は外入の中心的な場所で150戸あったが、令和4年には過疎が進み、2024年の戸数は6戸となっている。
郷地区と切り離せないのが磯兼景道である。磯兼家は、もともと安芸の小早川家の重臣の一人で、備後国に居住し末永氏の名を称していたが、景道のときに在所名をとり「磯兼」と改めた。
磯兼景道は父、末長景盛と親子で合戦のたびに多大な功績をあげ、父、景盛は小早川隆景から1550年に外入と思われる地250石を与えられた。
その後、磯兼景道は厳島合戦(1555年)における戦功により、1588年に毛利輝元から伊崎を含む外入村の地300石を与えられ、領主として館を構え外入を統治した。この地は水利がよく、領民の様子や航路が眺望でき、外入湾の入り江、泊浦は軍船の隠し場所としても最良だった。
磯兼一族は約60年間、天文19年(1550年)から元和年間(1615〜1623年)まで、三代(景盛、景通、景綱)にわたって外入を治めた。
しかい、毛利氏が関ケ原の合戦に敗れて、領地が防長二国に減封されると、影綱は元和年間に三田尻へ御船手組として移ることになり、磯兼氏の領主時代は終わり、館も廃止された。
また磯兼家の家臣であった、辻、河合、平原(おそらく伊良原を指すと考えられる)の各家が外入に移り住んでいる。磯兼館とその家臣三家の屋敷地は、外入村の「郷」とほぼ一致しているとされる。
外入村に伝わる伝承の中には、磯兼氏が一人の家臣を農業に、もう一人を漁業に従事させたとの記述や、江戸時代の庄屋であった石津家が、下男の一人に農地を拓かせ、別の一人に漁業に従事させたとの伝承も存在する。
これらの伝承の真偽は確かめ難いものの、専業の漁民集団としてではなく、農業と並行して漁業が発展してきたという、地域特有の生業形態を示唆している可能性がある。
磯兼館跡と西光寺の移転
郷の集落のすぐ北には、かつて磯兼氏の館跡が確認され、その近傍には馬場跡と呼ばれる区域も存在する。磯兼氏の菩提寺として伝えられる西光寺は、在住当時は「清龍寺」と称した禅寺で、郷のさらに山手にある土畠という場所に位置していた。
磯兼氏が三田尻へ移った後、しばらく荒廃して無住の時期を経て、四度にわたる所在変更を経た後、現在の位置に移転し、寺号を西光寺と改めたと伝えられる。
ところが善応という僧が元和5年(1619年)に少庵を結んで浄土宗の道場として残っていた阿弥陀仏・観音・勢至を安置し、寺号を清滝山西光寺とした。そして寛永18年(1641年)に外入大畠というところへ引き下げ、寺を再興した。さらに1715年に寺垣内というところへ屋敷替えしたと由緒書にある。
磯兼一族が日常身につけ、戦いのとき、身辺に置いて拝んでいた念持仏の聖観世音菩薩像は今も西光寺に秘仏として現存している。
また、馬場跡のすぐ西隣には、一時期西光寺があったと伝わる場所が確認されている。
神社・墓制と地域の信仰
『地下上申』の絵図によれば、郷の下手には大歳神、上手には荒神社が祀られている。実際、現在の大歳社は郷の下手、みかん畑の中に所在し、荒神社も同様の場所に確認される。
絵図には荒神社の脇に「磯兼加賀墓」との記述があり、この時期にはまだ西光寺への移設が完了していなかったことが示唆される。さらに、荒神社の境内には、かつて磯兼家に関わると考えられる五輪塔の残欠がいくつか並び、荒神社の北隣が磯兼屋敷跡と伝えられている。
耕地の所有と集落形成の様式
聞き取り調査によれば、郷の家々は自らの住居よりも上手、すなわち高台に耕地を持つ傾向が強い。特に平原家の場合、この所有形態が顕著に表れている。
この点は、山手に居を定めた家々が、住居の位置から直接耕地を開拓したのではなく、むしろ既存の耕作地を継承した形で集落が成立していった可能性を示唆している。
清流寺跡や磯兼館跡が郷の集落よりも山手にあることからも、往時の生活圏が山側に重心を置いていたことは否定できず、同様の傾向は西方本郷や平野地域においても見受けられる。こうした耕地の所有形態は、一つの地域的な様式として理解されるべきであろう。
三下
野口家の伝承
野口家は、播磨(現代の兵庫県内)から移来したとの伝承がある。主家が落城し、浪人となった当主が仲間の者五家族とともに安下庄へ移住したと伝えられる。
同行したとされる家名のうち、国安、国重、国弘の氏族は安下庄に留まる一方、野口家は外入村の山下(三下)に位置する待沢に定着したとされる。「郷」から「浜」へと続く道筋を下ると、野口家が山下(三下)に定着した区域に至る。この時期、外入村の「郷」には家屋が三軒(河合、辻、伊良原)ほどあったと伝えられている。
武士の末裔とされる野口家は、伝統に則り練塀(防御性を帯びた土塀)のある家に住むことが認められ、現代に至るまでその住居形態は維持されている。また、後に野口家は外入村の庄屋としての役割を担うようになり、苗字に帯刀が認められるなど、武士的な身分や家格が公的に裏付けられた。
妙見
浄念寺の成立と伝承
外入村にある浄念寺は、創始者がかつて武士であったという伝承を有する。
浄念寺は郷より西、村の中心部にやや高台として位置している。なお、『地下上申』の絵図では、山下のあたりが浜の中心部として描かれ、家並みの西端に浄念寺と妙見山が位置する一方、そこから一度家屋の連続性が途切れ、その以西に断続的な家並みが描かれている。この様相は、後年にわたり住宅が断片的に増加し、現在の集落形態が形成された過程を示唆している。
寺の妙見山に関する「御歎申上候事」という文書によれば、創始者は浅原八郎為頼の末裔であり、代々大内家に仕えていたが、大内義隆(1507~1551)の時代に主君を離れたと伝えられる。この際、主君から妙見菩薩の拝領を受け、かつての縁故を頼りに安下庄へ移り、僧侶となった。
法名を「浄念」と称し、庵を結び「妙見山」の号を名乗った。寛永13年(1636)に寺号が認められ、宝永元年(1704)に外入村へ移転した際、宗門の規矩により堂内に妙見菩薩を安置することが困難であったため、
寺の背後の山に小祀を設け像を安置し、かつその周辺の小村を「妙見村」と呼称するようになった。
※野口家と浄念寺はいずれも、外入村への定着過程において安下庄を経由していることが確認される。
泊
船着き場に最適な場所
泊というのは、遠浅になっている船のつく所である。満潮のときに船を岸につけておくと、干潮のときは船が浜にすわっていて、波が荒くても船のいたむ心配がない。満潮になっても海があれるなら浜にひきあげればよい。そこで遠浅のところを港にしたようで、船も底が平らであった。
■参考文献
・東和町誌
・http://www.oshiro-tabi-nikki.com/isokane.htm、2025年2月8日アクセス
・https://www.hb.pei.jp/shiro/suo/isokaneshi-yakata/、2025年2月8日アクセス