「いつか読むだろう」「あとで必要になるかもしれない」——そう思いながら、これまで何冊の本を積み上げてきたのだろうか。部屋の隅の本棚には、背表紙の色がすっかり日焼けしてしまった専門書や、小さな古本屋で出会った随筆集、どこかで誰かが薦めていた文庫本がぎっしりと並んでいる。
最近ふと、この本たちをそろそろ手放してもいいのではないか、と考えるようになった。
現実の私は、日々の農作業や暮らしに追われ、積読の山が高くなるばかりだ。
それでも、本を捨てることには、どこか後ろめたさがつきまとう。人生のある時点で、私はその本を「必要だ」と思ったのだ。その気持ちが、本を処分するたびに小さな罪悪感として心に残る。そして、こうも考えてしまう——老いて体が動かなくなり、外に出られなくなったとき、再び本が心の支えになるかもしれない。もう一度ゆっくり、読み返す日が来るのではないかと。
だが、よくよく考えてみれば、身体が動かなくなったときに本を読むのか、それとも読めるだけの集中力や視力が保たれているのか、それは誰にもわからない。本当に読みたい本、もう一度出会いたい言葉があるなら、それはほんの数冊だけでいいのかもしれない。
私はたぶん、もう“知のストック”を積み上げる年齢ではなくなってきたのだと思う。今、私の暮らしの中心にあるのは、畑だ。太陽の下で土に触れ、草を刈り、汗を流す。そんな暮らしのなかで、心が満たされていくのを感じる。
だから、本を少しずつ減らしていこうと思う。必要ならまた手に入る時代だ。あの本はどこにいったと思うことがあっても、必要な言葉はきっと、自分の中に残っているはずだ。