農業という仕事は、今や経済的に成り立たない職業になりつつあります。私自身の営農も、ほとんど所得ゼロに近い状況で、蓄えを切り崩しながらなんとか続けています。けれど、それでもなお、この村で農業を続けようとするのは、単に作物を育てたいという個人の趣味や意地ではありません。
いずれ資金が底をつき、農業の継続が不可能になれば、私はこの畑を手放し、柳井や岩国で賃金労働に出るほかなくなるでしょう。すると村では、草刈りや水路の管理、獣害防止の見回りといった、収入にも統計にもならない日常の営みが途絶えます。こうした無償の労働は、農作業のついでに自然と担われてきたものであり、誰かが担うことを前提に村の風景はかろうじて保たれてきました。
ところが、いざ「担い手」が消えると、その風景は驚くほど早く荒廃へと向かいます。そして、その荒廃のスピードを目の当たりにしたとき、ようやく周囲は気づくのです。
農林水産省は、農家の所得を年間250万円に引き上げることを目標に掲げています。しかし、その数字だけで農業の実態を測ろうとする姿勢には、深い懸念を覚えます。農家はただ作物を育てているのではありません。
「百姓」と呼ばれる人びとが、単なる食糧供給者ではなく、集落の景観・生態系・防災・地域文化など、多層的な基盤を守る“影のインフラ”として機能していたことに。
世間では今もなお、「農業は中卒や低学歴でもできる仕事」と見なされがちです。知識がなくても土を耕せる、簡単な労働だと考えられています。しかし実際には、天候・病害虫・地域社会との調整・環境への配慮など、極めて複雑な判断と経験が求められる高度な仕事であり、それは“稼ぎ”だけでは測れない多面的な価値を持っています。
私は、このまま農業をやめざるを得なくなった先で、国や自治体がどう農家に向き合うのかを見てみたいと思っています。補助金や支援策という表面的な話ではなく、農業が担ってきた「見えない社会的機能」をどう位置づけ直すのか。制度設計のあり方や、地域との関係性を問い直す材料になると考えているからです。
数字に表れない労働――農家が無言で担ってきた日々の営み――にこそ目を向けていただきたいのです。それなくしては、いくら所得を上げても、地域は静かに崩れていくばかりです。
農業は「食糧を生む産業」であると同時に、「土地と暮らしを守る営み」でもあります。その後者が崩れたとき、わたしたちの社会は、いったいどれほどの損失に気づくことになるのでしょうか。