スティーブ・ジョブズ / Steve Jobs
パーソナルコンピュータに革命を起こしたアップル創業者
目次
概要
生年月日 | 1955年2月24日(アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコ) |
死没月日 | 2011年10月5日(56歳)(アメリカ合衆国カリフォルニア州パロアルト) |
死因 | 膵臓がん |
埋葬地 | アルタ・メサ記念公園 |
国籍 | アメリカ |
学歴 |
・ホームステッド高等学校 ・リード大学中退 |
職歴 |
・アップル(共同設立者、CEO、会長、取締役会員) ・ピクサー(主要株主、会長) ・NeXT(設立者、会長、CEO) ・ウォルト・ディズニー・カンパニー(取締役会員) |
家族 |
・ローレン・パウエル(配偶者、1991年結婚) ・長男リード(1991年) ・長女エリン(1995年) ・次女エヴァ(1998年) |
パートナー |
・クリサン・ブレナン(ジョブズとの間の非嫡出子の長女リサ) |
関連人物 |
スティーブ・ウォズニアック、ティム・クック |
親族 |
・モナ・シンプソン(実妹) ・リサ・ブレナン・ジョブズ(ブレナンとの間の非嫡出子) |
スティーブン・ポール・“スティーブ”・ジョブズ(1955年2月24-2011年10月5日)はアメリカの情報技術ビジネスの大物実業家、発明家。アップルCEO、会長、共同設立者。ピクサーCEO、主要株主。ピクサー社買収後のウォルト・ディズニー・カンパニー取締役会会員。NeXT会長、CEO、設立者。
ジョブズは一般的に1970年代から80年代のマイクロコンピュータ革命の開拓者と認知されており、またスティーブ・ウォズニアックとともにアップルの共同創設者として知られている。
ジョブズ公式の自伝作家ウォルター・アイザックソンは「完璧に対する情熱を持つ起業家で、6つの産業(パソコン、アニメ映画、音楽、携帯電話、タブレット・コンピューティングおよびデジタル出版)を劇的に変革を起こした」とジョブズを簡潔に説明している。
ジョブズの思考や行動を育んだのが、1960年のカウンター・カルチャーのライフスタイルや哲学である。これは生まれ育ったサンフランシスコ・ベイエリアの風土との関係が深い。
ジョブズはリード大学に進学するが中退し、その後1974年に自己啓発と禅の修行を目的にインド旅行をする。
FBIのレポートによれば、ジョブズは大学滞在時にマリファナやLSDなど非合法ドラッグを使用しており、この文化がのちに大きな影響を与えた。ジョブズは「LSDは最も重要なことの2つか3の中の1つだ」とレポーターに語ったこともある。
また、ジョブズといえばミニマリズムの思想が知られているが、そこにはジョブズが養子として出された複雑な家庭環境や近所の低所得者向けでありながらシンプル・モダンで機能的な家を提供していた不動産屋、そしてカウンター・カルチャーで流行した禅の影響などがある。
1976年にウォズニアックとともにアップルを共同で設立し、Apple Ⅰを開発・販売。後継機のApple Ⅱは、初めて最も成功した量産型パーソナルコンピューターとなり、二人は莫大な富と名声を獲得した。
1979年にゼロックスのパロアルト研究所でマウス操作とグラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)で動作可能なコンピュータ「アルト」を視察して影響を受け、Apple Lisaの開発に着手し、1983年にApple Lisaを発売するが失敗。
しかし、1984年にMacintoshを発売して大成功をおさめる。MacintoshはGUIとマウスを利用した最初の量産型消費者向けコンピュータであるのに加え、1985年に発売したベクタ形式が特徴の最初のレーザープリンター機の「レーザーライター」とともにDTP産業で急激にシェアを伸ばした。
しかし、ジョブズは社内での立ち振舞いが原因で1985年にアップルを解雇される。アップルを退社したジョブズは、数人のメンバーらと高等教育やビジネス市場に向けに特化したコンピューター・プラットフォームの開発会社NeXTを設立する。
1986年にジョージ・ルーカスの会社ルーカスフィルムのコンピューターグラフィック部から派生した組織をジョブズは1,000万ドルで買収して、ピクサーを設立し、VFX(視覚効果)産業の発展に貢献した。
1997年にアップルがNeXTを買収し、ジョブズはアップルに復帰。その後、2000年に再びCEOに就く。倒産の危機に瀕していたアップルをティム・クックと2人で収益性の改善に努める。
同年、“Think diffrent”という広告キャンペーンを打ち、ジョブズは主要アップル製品のインダストリアル・デザイン・チーフとなるジョナサン・アイブと親密な関係を築きあげ、デザインに対しても大きな影響力を与えた。
現在のMacのOSで、iMac、iTunes、iPod、iTunes Store、iPhone、App Store、iPad、Mac OSに利用されているMac OS Xシリーズは、NeXTのNeXTSTEPのユーザー・インタフェースの特徴を多くひき継いだものである。
2004年に膵臓がんの診断がくだされると、現場から退き、ティム・クックを後継CEOに任命する。2011年10月5日、膵臓がんに伴う呼吸不全で死去。
重要ポイント
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経歴
ジョブズの両親と家系について
ジョブズを知るには、まずジョブズの複雑な家庭環境を知っておく必要がある。
ジョブズの養父であるポール・ラインホルド・ジョブズ(1922-1993)は、ウェスコシン州のジャーマンタウンのキリスト教カルヴァン派の家庭で生まれ育った。ポールの父親は農業を経営していてアルコール依存症で暴力的だったという。
ポールの若いころの外見はジェームズ・ディーンによく似ている。身体にタトゥーが入っており、高校を中退している。1930年代は仕事の都合で数年間、アメリカ合衆国中西部全体を旅していたという。ポールは最終的に機械工としてアメリカ沿岸警備隊に就職する。
第二次大戦後、1946年にポールはアメリカ沿岸警備隊をやめ、サンフランシスコに移る。そこで妻となるクララ・ハゴピアン(1924-1986)と出会い、10日後に結婚したという。
クララはアルメニア移民の娘でサンフランシスコで育ち、すでに結婚していたが、夫は第二次世界大戦で戦死して未亡人の状態だったという。
1952年に二人はサンフランシスコのサンセット地区に移る。ポールは信販会社の「レポマン」となった。また趣味としてポールは中古車を改造していた。クララは子宮外妊娠を経験したたため子どもには恵まれず、二人は1955年ごろに養子を迎えようとしていた。
スティーブ・ジョブズの実父であるアブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリ(1931年生まれ)はシリアのホムス出身でムスリムの家庭で育った。ジャンダーリの父は一代でミリオネアになった実業家で大学には通っていない。母親は伝統的な専業主婦だった。
ベイルート・アメリカン大学留学中、実父は過激な政治活動家で、そのため刑務所で過ごしたこともあった。ジャンダーリは政治学の勉強をしていたが、結局、経済学と政治家学を勉強することになった。
ベイルート・アメリカン大学卒業後、米国ウィスコンシン大学政治学科でティーチングアシスタントをしているときに、ジョブズの実母であるジョアン・シーブルと出会う。親はドイツとスイスのカトリックの家系でウィスコンシンで農場を営んでいた。
博士課程でジャンダーリはシーブルにティーチングアシスタントをしていたが、二人は同じ歳だった。シーブルの両親は娘が好きな男がカトリックではないため交際に強く反対。付き合うと娘を勘当するとまで脅迫もした。
シーブルは1954年に妊娠。二人はシリアのホムスのジャンダーリの家族と夏を過ごした。ジャンダーリは「ジョアンナとはとても愛しあっていたが、残念なことに彼女の父親は暴君で、シリア出身の私との結婚を許さなかった。それで彼女は私に子どもを養子縁組に出してほしいといった」と話している。
当時、婚外子やシングルマザーに対する差別意識が強く、また中絶が違法で危険が高かっただったというのも大きな理由であるとされている。1954年のアメリカでは、養子縁組という選択のみしか女性には残されていなかった。
捨てられ同時に選ばれた民
スティーブ・ジョブズは1955年2月24日サンフランシスコで、ウィスコンシン州のドイツ系移民の娘でアメリカ人のジョアン・シーブルと、シリアから来たイスラム教徒の留学生アブドゥルファター・ジョン・ジャンダーリとの間に生まれた。
ジョアンの父が、ムスリムのシリア人であるアブドゥルファターとの結婚を認めなかったため、生後、すぐにスティーブは養子に出されることになる。養子縁組においてジョブズを引き取る側に対するシーブルの条件は「カトリックであること、大学を出ていること、裕福であること」だった。当初は弁護士の家庭に引き取られる予定だったが、女の子がいいと断られてしまう。
そして、ポール・ジョブズとクララ・ジョブズに引き取られることになる。しかし、ポールもクララも大卒ではなかったため、シーブルは書類へのサインを当初は拒否された。最終的にお金を貯めて子どもを必ず大学にやると養親や約束することで承諾することになった。
ポールとクララは1957年にジョブズの妹パトリシアを養子にし、家族は1961年にカリフォルニアのマウンテンビューに移っている。
生まれてすぐに「捨てられ」、同時に養子縁組として「選ばれた」ジョブズの境遇は、その後のジョブズの「捨てる」と「独立心」や「少数精鋭」のアップル哲学となり個性となる。
スティーブ・ジョブスは少数精鋭主義について次のように話している。「周りにいる人間は個人的に知っていたいが、私は100人以上のファーストネームを憶えられない。だから100人以上になると、組織を変えなくてはいけなくなって、今まで通りのやり方が出来なくなる。私は自分が全てに関われるところで仕事がしたいんだ。」(徹底した”少数精鋭主義派のスティーブ・ジョブス” vs ”少数が精鋭になる派の井深大” [よもやま話])
幼少の頃スティーブは、機械工で壊れた車を引き取っては修理し、それを売る養父のポールから機械や車について手ほどきを受ける。スティーブがエレクトロニクスに触れたのは、父親の車の改造趣味を通じてだった。
スティーブの実家のあたりは、安価な住宅を低所得者に数多く販売していたアイクラー・ホームズの住宅が数多く建てられている場所で、そのこぎれいなデザインとシンプルなセンスに多大なスティーブは影響を受ける。
10歳までにジョブズにエレクトロニクスに入れ込み、近所に住んでいる多くのエンジニアと仲良くなった。しかし、同世代の子どもと仲良くなるのは難しく、クラスメートから“一匹狼”と見られていた。
小学4年生が終わるころ、ジョブズは知能検査を受け、高校2年生レベルの成績を上げる。この結果、ジョブズの知能が並外れていることがわかり、1年飛び級で進学する。
しかし飛び級はつらい経験となり、ひとつ年上の子どものなかに放り込まれたジョブズは、孤立し、いじめられることも多く、7年生のなかばで転校することになる。また13歳ころからジョブズは教会に通うのをやめるようになる。
1967年にジョブズの一家は、カリフォルニア州ロスアルトスのクリストドライブにあるスリーベッドルーム付きの家に移る。
カリフォルニアのクパチーノ連合学区で最も優等な地域だった。また、マウンテンビューの家のときよりも周囲に多くのエンジニア家庭が住んでいた。クパチーノ中学の同級生にエレクトロニクス友達のビル・フェルナンデスがおり、彼は最初の友達となった。
フェルナンデスは「8年生はみんな風代わりなジョブズが嫌いだったけど、自分1人だけは彼の数少ない味方だった」と話している。
フェルナンデスはのちにジョブズに18歳のエレクトロニクス友達でアップル共同設立者のスティーブ・ウォズニアックを紹介することになる。ウォズニアックはフェルナンデスの近所に住んでいたのだ。
1968年半ば、ジョブズが13歳のときヒューレット・パッカードの工場で組み立てラインのアルバイトをする。CEOへ電話をして仕事に就いたという。
中学を卒業後、スティーブはホームステッド・ハイスクールに進学。1960年代末のカウンターカルチャーにどっぷりはまった年上の友だちが多く、ちょうどその頃はギークの世界(オタク)とヒッピーの世界が重なろうとしていた時代だった。
そんな時期に過ごしたジョブズは、数学、科学、エレクトロニクス、アマチュア無線、LSD、カウンターカルチャーに関心を持ち始める。また高校1年が終わったころからHP(ヒューレッド・パッカード)の工場でアルバイトを始める。高校2年から3年にかけてマリファナをはじめる。
「自分はエレクトロニクスが大好きなギークであると同時に、文学やクリエティブなことが好きな人文系の人間らしい」と思うようになる。
音楽をよく聞くようになり、シェイクスピアやプラトンなど、哲学や芸術にも関心を持ち始めた。当時は『リア王』が大好きだった。ほかにメルビルの『白鯨』やディラン・トマスの詩もお気に入りだった。
天才エンジニア“ウォズ”との出会い
1971年、アップルの共同設立者の一人で、 Apple IおよびApple IIをほぼ独力で開発した主要エンジニアとなるスティーブ・ウォズニアック(ウォズ)と出会う。
エレクトロニクスの知識に関してジョブズなど足元にもおよばないほどウォズは詳しく、ジョブズの専門知識を伸ばしてくれる人物だった。
ジョブズはすぐに好きになった。またウォズはジョブズと同じくコンピュータに対する興味のほか、音楽に対する情熱も共通していた。ジョブズがボブ・ディランに興味を持つようになったのもウォズのおかげだった。
1971年、ウォズとジョブズの協力体制としてその後に定着する事件が起きる。「ブルーボックス」事件だ。ジョブズとウォズは、長距離電話をタダでかける機械「ブルーボックス」を開発することに成功し、それをジョブズが販売して利益を得た。アップル創業時の役割分担はこのときはじまったとジョブズは証言している。
ブルーボックス開発のきっかけとなったのは、「エスクァイア」誌1971年10月号に掲載されていた1つの記事だ。ブルー・ボックスと呼ばれる装置を使って、無料で長距離電話をかけることが可能になるというハッカーや電話フリークのための記事をウォズが見つけた。
ジョブズとウォズはブルーボックスを自分たちで作ることにした。2人は、AT&T(ベル社)の交換器が利用する周波数やトーンが書かれている資料をスタンフォード大学線形加速器センターで探し出し、ダイオードとトランジスタなどブルーボックスの部品を購入し、絶対音感を持つ音楽科の学生に手伝ってもらいつつ、ウォズがブルーボックスを製作した。
最初は趣味で作って、ヘンリー・キッシンジャーのふりをしてバチカン宮殿のローマ法王へいたずら電話をしたりして、遊んでいただけだったが、ジョブズは売ればビジネスになると気づく。ブルーボックスの材料費は40ドル。ジョブズはこれを150ドルで販売することにした。明らかにフリーキング(不正行為)だ。バイヤーとして、ウォズは「バークレー・ブルー」、ジョブズは「オーフ・トバーク」というハンドルネームを使っていた。
「ブルーボックスがなければアップルもなかったと思う。それは間違いない。この経験からウォズも僕も協力することを学んだし、技術的な問題を解決し、製品化できるという自信を得たんだ」(ジョブズ)。
サブカルチャーとの出会い
1972年、ホームステッド・ハイスクールを卒業したジョブズは、ロアルトス山の小屋でアニメーション映画を共同制作していた1歳年下のクリスアン・ブレナンと暮らし始める。この頃からLSDに親しむようになる。
1972年秋に、自由を重んじる校風とヒッピー的なライフスタイルで知られるリベラルアーツの私立大学リード・カレッジに入学する。
ジョブズは精神世界や悟りに関するさまざまな本に影響を受ける。とくに、サイケデリックドラッグ(幻覚剤)の作用と瞑想についてババ・ラム・ダスが書いたサブカルチャー誌『ビー・ヒア・ナウ』の影響を強く受ける。
ダニエル・コトケとそのガールフレンド、エリザベス・ホームズ、それにロバート・フリードランドらと行動するようになり、クリシュナ教寺院における愛の祭典に参加したり、禅センターが無料で提供するベジタリアン料理を食べにいったりした。
特に禅にはまり図書館に通って、禅に関する本をひたすら読むようになる。鈴木俊隆の『禅へのいざない』、パラマハンサ・ヨガナンダの『あるヨギの自叙伝』、リチャード・モーリス・バックの『宇宙意識』、チョギャム・トウルンパ・リンポチェの『タントラへの道-精神の物質主義を断ち切って』などだ。
エリザベスの部屋の天井裏に瞑想室を作った。ジョブズにとって、禅宗を中心とする東洋思想に傾倒したのは一時的なものではなかった。ギリギリまでそぎ落としてミニマリスト的な美を追求するのちのアップルの姿勢は、皆、禅から来たものだった。
またジョブズは仏教にも強い影響を受け、抽象的思考や論理的分析よりも直感的な理解や意識が重要だと気づいた。ただ気性が激しかったため、解脱して涅槃にいたることはできなかった。心の安寧も、他人に対する厳しい姿勢も柔らぐことはなく、もっぱら美術的感覚のほうに東洋思想はジョブズに影響を与えた。
もう一冊、大学1年生のジョブズに大きな影響を与えた本がフランシス・ムア・ラッペの『小さな惑星の緑の食卓-現代人のライフ・スタイルを変える新食物読本』だ。この本で菜食主義に影響を受け、浄化や断食などの食事習慣を覚え、ベジタリアンとなった。
大学の授業ではカリグラフィーに興味をもった。ジョブズはデザインや外観などの美術的感覚を大事にするが、その美術的感覚はカリグラフィーの授業で身につけた。カリグラフィーを学ばなければ、マックに複数種類のフォントが搭載されることもなくなかったという。
菜食主義、禅宗、瞑想、スピリチュアリティ、LSD、ロック、当時大学ではやっていたサブカルチャーの象徴となっていたさまざまなのものがジョブズのなかでひとつに交じり合っていた。これらのものがのちにエレクトロニクスギークと美術一体となって花開く日が来るわけだ。
アタリ社とインド学んだシンプルな哲学
ジョブズは18ヶ月リード大学で過ごした後、1974年2月、ロスアルトスの実家に戻り仕事を探す。
その頃人気だったビデオゲームメーカーのアタリ社を訪問し「雇ってくれるまで帰らない」と宣言する。こうして50人しかいないアタリの社員のひとりとなった。時給5ドルの技術作業員だった。
この頃から失敬な人ジョブズの評価は広がっていた。基本的にひとりで仕事をしていたにもかかわらず、たまに会うと、誰彼かまわず「大ばか野郎」とこき下ろしたからだ。
ジョブズはアタリで多くを学ぶ。ゲームの改良にも没頭し、ルールを自分に都合よく変えてしまうという技をアタリ社で学んだ。
同年、ジョブズはインドを旅行する。アシュラムと呼ばれるヒンズー教の修行所で、ラリー・ブリリアントという人物と知り合いになる。天然痘撲滅を目指して活動する学者で、のちにGoogleの事前事業部門とスコール財団を統括するようになる人物だ。ジョブズとブリリアントの付き合いはそれからずっと続く。
インドからロスアルトスに戻るとジョブズは本格的に自分探しを始める。毎朝、毎晩、瞑想を行い、禅を勉強し、その途中でときどき、スタンフォード大学へ物理学や工学の授業も聴講に行った。インドへの旅はのちのちまで自分に影響を与えたとジョブズは語っている。
ジョブズはロスアルトス近郊で鈴木俊隆老師と千野弘文老師に出会う。ジョブズはここで熱心に学ぶ。
弘文老師に出家の相談をしたが、事業の世界で仕事をしつつ、スピリチュアルな世界とつながりを保つことは可能だから出家はやめたほうがよいと諭される。ふたりの関係はその後も長く、続き、17年後には弘文老師がジョブズの結婚式を執り行うなどしている。
1975年初頭、アタリ社にジョブズは戻る。ここでチップ数を削減してゲームを作る工夫を始める。チップ数を少なくできればボーナスが出ることもあった。ここでジョブズはチップを削減するため、ゲーム内容をできるだけシンプルにする術を身につける。
しかし、ジョブズは回路基盤の設計に関する知識はほとんどなかったので、ウォズニアックに頼んで、チップ数を最小限に抑えたら給料を山分けすると約束する。
これでジョブズは700ドルのボーナスをアタリ社から受け取り、半分の350ドルをウォズニアックに渡したという。しかし、当時ジョブズはピンハネしており実際は5000ドルのボーナスをもらっており、この事実についてウォズニアックは10年後までわからなかった。
アップルⅠの開発
1975年3月5日、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアが立ち上げたクラブの第一会合に参加したウォズが、マイクロプロセッサーの仕様書を見たきっかけにパーソナルコンピューターのビジョンを思いつく。
そのとき、のちのアップルⅠとなるスケッチを描く。その後、ウォズは開発を進め、1975年6月29日にパーソナルコンピューターができあがる。
このマシンにジョブズは感動し、部品調達の手伝いを始める。ジョブズはあちこち電話してインテルから何個かただで手に入れたりした。
ジョブズとウォズの分業はこの頃から始まり、ジョブズが外部のやり取りやらビジネス戦略を練るなどマネジメントに力を入れ、ウォズは開発に集中するようになった。
「ぼくがすごいものを設計するたび、それでお金を儲ける方法をスティーブが見つけてくれる」自分ひとりだったらコンピュータを売ることはなかったとウォズは言う。
ジョブズは事業を始めるに当たって名前を考えた。菜食主義者を実践していて、また当時リンゴ農園に勤めており、元気がよくて楽しそうな名前ということで「アップル」にしたという。
また、ジョブズとウォズのほかに友達のエンジニアのロン・ウェインを誘う。作業の中心となったのはロスアルトスのジョブズの実家だった。
アップルⅠが雑誌ではじめて特集されたのはインターフェース誌の1976年7月号だった。1976年9月の第1回パーソナルコンピュータ・フェスティバルに参加。開催場所はニュージャージー州アトランティックシティーのホテル。アップルⅠと新しいマシンのプロトタイプを持ち込んだ。
このときジョブズはパーソナルコンピュータは、すべてが用意され、パッケージとなったコンピュータを作る必要があると感じる。部品を買い集めて組み立てる自作好きのコンピュータマニアたちを狙うのではなく、購入したらすぐに使えるマシンを欲する人達を狙わないとだめだと感じたという。
アップルⅡで世界的名声を獲得する
フェスティバル後、ジョブズらはアップルⅡの開発を始める。アップルⅡからジョブズはデザインに注意を払うようになる。
灰色をした不細工な金属ケースの他社製品と一線を画すものでなければならないと思い、ジェリー・マノックにデザインを依頼。数週間後、注型発泡という方法で作られたシンプルなプラスチックケースが届き、ジョブズは満足する。
アップルⅡの開発にあたって、ウォズはヒューレット・パッカードを退社。またマーケティングと物流がわかり、事業計画が策定できるマイク・マークラを仲間にくわえる。
マークラはジョブズと同じく「マニア以外まで市場を広げることが大事」だと考えていた。マークラはジョブズにマーケティングや営業の重要性を教えこんだ。
「マイクは本当に世話になった。彼の価値観は僕とよく似ていたよ。その彼が強調していたのは、金儲けを目的に会社を興してはならないという点だ。真に目標とすべきは、自分が信じるなにかを生み出すこと、長続きする会社を作ることだというんだ」。
1977年1月3日、新法人のアップルコンピュータを設立。4月にサンフランシスコで開催される第一回ウエストコーストコンピュータフェアでアップルⅡを披露。
ベージュ色の優美なケースに入ったアップルⅡは、他者のごつすぎる金属ケースに入ったマシンやむきだしのボードと比較して、フレンドリーな雰囲気を醸し出していた。
アップルⅡは大成功し、その後16年間、さまざまなモデルが総計600万台も販売される。パーソナルコンピュータという産業を興した立役者となった。
ジョブズが23歳のとき、1978年5月17日、ブレナンとの間に女の子が生まれる。リサ・ニコール・ブレナンという名前を付ける。ジョブズとブレナンは結婚する気はなかった。名前をつけるとジョブズは、ブレナンを置いてさっさとアップルの仕事に戻る。
アップルⅡのおかげでアップルは、一気にトップ企業にまで登りつめた。販売台数は1977年の2500台が1981年には21万台となった。
ジョブズは1978年、23歳で億万長者となった。24歳で1000万ドルの資産を築き、25歳で1億ドルの資産を築いた。また「フォーブス」誌でアメリカで最も裕福な人々の1人として紹介され、また遺産を受け継ぐことなく1人で富を手に入れた若者として紹介された。
1978年にアップルはCEOにナショナルセミコンダクターからマイク・スコットの就任を依頼。1983年にジョブズはペプシ・コーラからジョン・スカリーをアップルのCEOに誘い込み「残りの人生を砂糖水を売って過ごすか、それとも世界を変革したいか」と尋ねた。