阿含や小乗仏教への関心
荒俣:20世紀のキーワードから、話を始めましょうか。ひとつは「チベット」なんですね。チベットの死者の書とか、「第三の眼」といわれる千里眼、そして運命の車やダライ・ラマのことが注目を集めた。こうした東洋の修行をともなう出家的宗教とその超能力や超覚醒に、20世紀を救済する力があると信じられたからです。
日本でも今はそうなりましたが、ヨーロッパでもアメリカでも同様です。期せずして、チベット、インド系のクンダリニーですとか、チャクラ、あるいは阿含など原始仏教に関心が向いたんです。この中にある行のシステムが、非常に大きな問題になっていて、こういう方向での改造といいますか、精神改造をしようという流れが、大体20世紀をおおってきたわけです。
麻原さんは、そうした流れのなかに、乗っているというふうに拝見しています。まず、麻原さんのチベット的な教義との出会いとご自身が解脱を行うまでのプロセスをお聞きしたいと思っています。
麻原:まず、私がはっきり記憶しているのは、3歳ぐらいのときだと思うんですが、体から抜け出して、ちょうど幽体ですね。家の周りを飛び回るとか、そういう経験がありました。それが6歳ぐらいまで続き、学校に行きだして、教育というものを受けだして、シャットアウトされてしまいました。中学、高校と柔道をやっていましたが、疲れた後で同じような現象が起きるわけです。でも、あまりまじめな学生じゃなかったものですから、体験そのものに、恐怖を覚えたわけです。
20歳すぎに東京に出てきたころから、本格的にそういう傾向のモノと接し始めたんです。
まず、中村元先生の『原始仏典』を読みまして、あそこに書かれている禅定のまねごとみたいなのをやっていましたね。で、本格的に仏典に興味を持ち出したのが、増谷文雄先生の『阿含経典』です。なかなかすばらしい教えであると感じました。
荒俣:麻原さんが興味をお持ちになったころは、阿含というのは、仏典の中ではまだそんなにネームバリューのなかったころですね。
麻原:はい。日本に伝わってきている大乗仏教系の教義には、昔からあまり興味がなかったんですね。
荒俣:そうですか。それは変わっていますよね。ふつう哲学とか教義の問題から入ると、大乗系のほうが複雑だし、宇宙的でおもしろいわけでしょう。近代人の仏教への関心の持ちかたはそうですね。でも、麻原さんは仏教のポイントを、そういう学問体系でなく、行の教える直接的叡智からつかもうとされた。なぜですか。
麻原:といいますのは、絵にかいたモチという感じがしまして、それよりもその世界に到達していくプロセスのほうに、興味がありました。それのひとつの手段として仙道的なものとか、あるいは、気功的なものとか、ヨーガ的なものとか、仏教的なものなどにトライしました。
個人が解脱の意思をもち「覚醒者」とならなければいけない
荒俣:なるほど。今、お話が出た修行ということに関しますと、密教というのが非常にこまかい方法論を持っているんですが、密教の、例えば空海のような人々の提案した行は、なさったことはあるんですか。
麻原:もちろんやっております。そういう書物を古本屋さんでいろいろ探しまして、いろいろやりました。ですが、ひとつ疑問があったのは、日本密教というのは現世ご利益が中心なんですね。それで、現世で苦しんでいるのに、なぜ、現世ご利益を説くのかなという疑問がありました。しかし、日本には真の密教が不在だから、やらなければならないと、随分とやりましたから。
荒俣:たしかに、現世利益というのは、仏教が日本に入ってきた一番最初の理由みたいなところがありますからね。
もちろん、現世利益の問題は、密教ならたとえば、護摩法ですとか、あるいは、即身成仏の法とかいって、いろいろなものが組み込まれておりますけれど、その中から例えばヨーガ的な方向に感じいる行き方というのはありますよね。
麻原:そうですね。ただ、日本密教の成仏ということにずっと疑問がありまして、一体、成仏とは何だ。死んだ人はみんな成仏、みんな仏になるのかという疑問がありました。そこで、サンスクリット語を調べてみると、仏というのは、つまり、覚、目覚めるということだったんです。
荒俣:覚醒者。
麻原:要するに意識状態が、完全な状態、鮮明な状態、連続した状態であるということに気づきました。そこからパタンジャリのヨーガの修行などの本格的なヨーガ的な修行に入っていったということです。
荒俣:いわゆるクリア・ライト(解脱直前の最も高いステージで現れる透明な光)ですね。そうすると、今のヨーガ的な修行というのは、やっぱり個人の問題というか、個人がまず解脱の意思を持たないことにはどうしようもないということが、大きいと思うんですね。ですが、一方日本では先ほど麻原さんがおっしゃったように、大乗的なものが大きい。悉皆成仏で、兜率天で弥勒が成仏を祈っていてくれば、大丈夫だろうと。法華経をはじめとして、大体そういう傾向が全部あって、日本人はそれをよしとして、それが大体国家仏教のようなものへとつながっていきますよね。仏教は個人どころか国家も法人もまもる、といったように。そういう傾向の成仏のあり方というのには、疑問を持たれていたということですね。
麻原:はい。疑問を持っていました。例えば、タントラなどの説いている法も、結局、小乗の上に成り立っている大乗なんですね。ところが、日本にはその小乗がない。
荒俣:日本の場合はそうですね。突然大乗になっているから、行の積み上げがないですね、たしかに。
麻原:ですから、例えば、仏教のもともとの発生のねらいというんですか、個が肉体から解脱すること、そして、もともと私たちの持っている徳の原理によって、歓喜の状態、あるいは至福の状態があります。しかも、この世にいながら、私たちを構成しているもっと別のふたつの形状界と非形状界(形状界とは欲望の上に存在している絶妙な美しさの形状の世界。非形状界とは形状界の上に属する、形のない色と光の世界を指す)とか言われているんですけれども-こういう世界と完全につながることによって、生死を超越するという教えがあるわけですね。
そこに到達しないことには、大乗の教えの崇高さも説けないと思うんです。
お坊さんはポアさせる先生であることが大事
荒俣:そうしますと、麻原さんのお考えでは、日本人はいきなり大乗から入って、他力本願といいますか、これをひとつの生活のパターンに置こうとした。だけど、実は、大乗でさえ、個人的解脱の積み上げというものがないことには、宗教は単なる民俗習慣の製造元になるだけで、すこしも救済の方向へむかわないだろう、ということですね。
そのため、ヨーガというか行のほうにお入りになって、体験を積まれたわけですけれども、そのプロセスで、麻原さんにとって、これが普通の人間にとっては一番重要なんだなというふうにお考えになった行は、特になんだというふうにお考えになりますか。
麻原:私は、ポア(転生)だと考えております。そのポアといいますのは、例えば、ある方が亡くなられたときに、大乗の思想ではもともとその前に帰依という母体があって、その帰依という母体をもとに、ついているお坊さん、その人が、ほんとうにこの世だけではなく、あの世に精通していれば、そこで意識を移しかえられるということなんです。それだったら、もちろん、今まで大乗で言われていたように、成仏ということはあり得ると。それを成し遂げることが、愛であると。
そのために仏道修行者は修行するんだということが最も大切なことなのです。僧とかそれから信徒のつながりがしっかりしていて、ついてきている信徒に対して、しっかりと高い世界(ステージ)へ引き上げるということが必要なんですね。
荒俣:いまのお話で、成仏させるのは僧侶の最大責務だという点が、僕には大変おもしろかったんですけれども、いまのお話だと、もうちょっと段階的なプロセスがあると思うんですけれども。
麻原:要するに、人間を形成しているものは、5つの罪悪、肉体、感覚、イメージ、意志そして意識と。この5つの中の意識が私たちの乗り物なわけですね。乗り物というのは、この世でも存在しているし、あの世でも存在している。その意識のデータによっては、例えば動物の世界に転生したり、あるいは地獄に転生したり、あるいは、餓鬼の世界に転生したり、あるは人間に転生したりするわけですけれども、その意識が例えばお坊さんとつながっていますよね。そのお坊さんが意識のデータを入れ替えてくれる。入れ替えてくれることによって、人間界、あるいは上位の世界へと生まれ変わるんだと。それを成せる人を、仏教では成就者と言っているわけですね。そういう人たちに対する信仰によって、他力本願が成立するんです。
荒俣:それは非常に重要なことですね。お坊さんはポアを体験させる先生でなきゃいけない。でも、どうもいまの檀家制度下では、そういう点の修行をする坊さんはそうもありませんよね。墓だけ管理しても、もうかるから。
麻原:大乗仏教で説かれている内容というのは、世界があって、そこへ引き上げていただくために仏様に帰依をするわけです。ナマ-帰依ですね。これは、例えば阿弥陀仏に帰依しますよとか、あるいは、妙法蓮華経に頼りますよという言葉を唱えることだと思うわけです。問題は、受け手が、つまり僧のほうがよほどしっかり修行をしていないと、道だけ示されていて、実際は結果を出してあげることができないということになりがちなわけです。そこが最も重要なことだと思います。